26号表紙

No.26(昭和49年3月)

特集:

神戸の歴史(下)

神戸の歴史〈幕末期〜現在〉 勝海舟の自筆による海軍営の碑
 

大阪湾巡視で将軍家茂ら来神
攘夷論で追いつめられた幕府

文・落合重信(神戸市立中央図書館内神戸市史資料室)
写真協力・荒尾親成(元市立南蛮美術館長)

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勝海舟 神戸海軍操練所開設者、江戸幕府の海軍創設者

 名は義邦、のち安芳(やすよし)と改め、海舟と号す。早くから蘭学、西洋兵学を修め、一八五五年(安政二)海軍伝習生として長崎でオランダ人から海軍諸術を学び、六〇年(万延一)には咸臨丸(かんりんまる)艦長としてアメリカに航海した。六四年、軍艦奉行になり、神戸海軍操練所の開設ではその総管となった。幕府崩壊後、六八年(明治一)官軍の東下にあたり、旧幕府の陸軍総裁として東征大総督府参謀西郷隆盛と江戸無血開城の約を成立させた。のち元老院議官、伯爵となり、また海軍歴史、陸軍歴史など著書も多い。

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将軍家茂が大阪湾巡視の時上陸した小野浜(葺合区小野浜町)

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網屋吉兵衛 神戸港に最初のドックを建設

 開港約十年前の安政二年三月。当時一帯の砂浜つづきであった神戸村の浜に、自費で船たば場を建設し、船舶の整備作業を行なった。また、伊藤俊輔に協力して、神戸港の波止場建設計画を練った。

幕府頷下の神戸地方

 明和六年(一七六九)二月、幕府は突如として、今津から兵庫にいたる大阪湾沿岸地帯の藩領および旗本領に対して、幕府領に移すことを命じています。
 この地域の大部分を領していた尼崎藩は、この上ゲ知令によって、重要な地を幕府に召上げられ、もっとも大きな影響を受けました。新たに幕府領になったこの地方の諸町村は、大坂の代官の支配を受けることになりますが、西宮町と兵庫津は、特別に直接大坂町奉行所が支配することになりました。
 さて、兵庫津では問屋業の発達がめざましく、延宝年間に灘方面にも問屋業者が出だしたとき、兵庫の問屋業者は尼崎藩主青山幸利に訴えて、一三六軒の問屋の許可と、兵庫だけに問屋の名を与えてもらっています。しかし尼崎藩の時代には大坂商人の抗議もあって、株仲間の名目は許可されず、明和六年(一七六九)幕府直轄領となってから、はじめて株仲間の名称を持つようになりました。
 兵庫には、諸問屋株、穀物仲買株、干鰯(ほしか)仲買株、煙草仲買株、素麺屋株など、それぞれ株仲間がいましたが、そのうち、諸問屋・穀物仲間・干鰯仲間は、兵庫の商業上もっとも大切なもので、力も大きく、これを三仲間と称していました。
 はじめ幕府は、大坂商人に特別な保護を加えるとともに、兵庫には圧迫の方針をとっていました。しかし兵庫は地の利もよく、大坂への貨物も兵庫問屋が引きうけることも多く、その上、兵庫に入港する船がふえるにつれてその勢力を増し、米穀や肥料などは大坂より兵庫で取引されるものが多くなるようになりました。それらに対して、天保年中にも幕府が干渉を加えていますが、兵庫の商業の発展をおさえることはできず、兵庫は、自然の良港によって瀬戸内海第一の集散市場として栄えました。
 一方、当時兵庫津のほかの村々には、小間物屋・酒屋の一、二軒あるほかは、ほとんどの人びとは農業に従事しており、中には、男は素麺職・線香職・酒造など、女は農閑期には大方は木綿賃織・莚織(むしろ)・樽巻縄作り・千鰯俵作りなどにしたがっていました。それらの村々の中では、神戸浦の神戸村、二ツ茶屋村は他村と少し趣きが異なり、廻船業と酒造業をかねる者や街道にそって商売や旅宿、飛脚業を営む人々がいました。脇浜村も廻船で栄え、酒造業では大石村が中心となっていました。また、駒ケ林・須磨方面は漁業を営むものが多く、特に駒ケ林はさかんでした。
 天保八年(一八三七)二月一九日、もと大坂奉行所の与力であった陽明学者大塩平八郎は、数年来の飢饉にあたって幕府の役人が商人と結んでなんら誠意のある対策を立てないことに対して、門弟をひきいて乱を起しました。有名な大塩の乱ですが、この乱はすぐにおさまったものの、大坂の五分の二が焼けたといわれ、その知らせは全国に伝わりました。
 兵庫にも万一に備えて姫路藩兵が駐在したほどでした。車村出身の平八郎の門人逸見(へんみ)文太郎は、兵庫西出町の柴屋長太夫の紹介で入門寄塾していましたが、事情で退塾していて、乱に参加しなかったけれども、乱のあと幕府からきびしい追及をうけました。
 当時の飢饉にさいしては、困窮者を救助する費用を兵庫の株仲間なども負担しましたが、天保一二年(一八四一)に着手された水野忠邦のいわゆる天保の改革によって、株仲間は一たん廃止されました。しかし改革の効果は十分にあがらず、嘉永年間に株仲問は再興されることになります。
 このころより、徳川幕府の運命は急速に崩壊する方向をたどっていきます。

幕末期の神戸地方

 幕府が天皇の許可を待たず、安政五年(一八五八)欧米五ヵ国と通商条約を結んだことは、世論をわかせ、いわゆる安政の大獄によって幕府に反対する者への処罰となり、逆に桜田門外の変ともなります。
 幕末志士を中心にした外国排斥運動(攘夷論)は、幕府の立場を追いつめてゆきます。兵庫開港問題にからんで、外国船の摂津国沿岸へ接近するものが多く、京都に近いこともあって摂海防備論が一だんとやかましくなってきました。
 幕府から長州藩に対して安政五年(一八五八)六月兵庫付近一帯の警備の命が出されたので、同年秋、福原左近之允が兵庫備場総奉行に任命されます。長州藩の警備地城は武庫川より西須磨にまでおよぶ広い地域であったため、長州藩は沿岸五ヵ所に土地を要求しましたけれども、幕府は応じなかったので、警備の効果はあまりあがらなかったといえます。
 当時大阪湾沿岸は、幕府領は幕府の手で、大名領はその藩主の手で、いたる所に砲台が築かれ、すこぶる意気があがりました。文久三年(一八六三)三月長州藩の警備の任が解かれたあとは、津山藩・豊後岡藩・高松藩の三藩が警備にあたり、各藩とも大砲の訓練に励みました。こんな状勢であったので、将軍家茂は文久三年四月に摂海防備視察のための軍艦順動丸で来神し、つづいて姉小路公知・一橋慶喜(のちの十五代将軍)などがやってきています。
 文久三年の八・一八政変で、長州藩など攘夷派は、会津藩・薩摩藩などの勢力によって敗れ、攘夷派の公卿三条実美らは長州へ落ちのびます。いわゆる七卿落です。同じ時期の攘夷運動として、中山忠光らの天誅組の乱では神戸熊内の中西与左門邸が一部作戦の場として使われ、また生野では平野国臣らの生野の乱がありますが、いずれも失敗に終っています。
 その後も、長州藩と幕府・薩摩の兵が交戦した蛤御門の変(禁門の変)があるなど、世は騒然とし、幕府による長州征伐が元治元年(一八六四)・慶応元年(一八六五)と二度にわたって行われます。このとき、兵庫の町は双方の兵が行き来したため、町はあらあらしい空気がみなぎっていました。
 大阪湾沿岸防備の必要は早くから唱えられていましたが、安政元年(一八五四)ロシア使節プーチャーチンが大阪湾に来たことから、にわかに沿岸は騒然となりました。ことに文久二年(一八二六)生麦事件が起ると、その報復のため英艦が大阪湾に来襲するだろうという噂がひろまり、幕府は大阪防備に踏切ることになりました。文久三年(一八六三)四月二一日、将軍家茂は大阪湾巡視のため京都を出発し、二三日神戸村小野浜に上陸しました。このとき従ったのが勝海舟です。

神戸海軍操練所創設

 神戸村小野浜に上陸したのは勝海舟の要請によってここに海軍操練所建設が計画されていたためです。この地が海軍操練所建設の候補地となったのは、これよりさきに網屋吉兵衛が非常に苦心して船たば(ふなたば)場を経営していたからであります。船たば場は嘉永七年(一八五四)九月一日に着手し、安政二年(一八五五)九月に完成したもので、船たば場というのは船底を燻べて船虫を駆除して船の耐久力をはかるものです。それまで讃岐の多度津まで行かなければならなかった不便を解消すべく吉兵衛が努力してつくったものでしたが、吉兵衛はそのため財産を使いはたし、船たば場も抵当に入るという仕末でした。
 将軍の巡覧によって、幕府は大阪湾の要地に、砲台を製造することに決めました。神戸地域では湊川出州と和田岬と舞子の三ヵ所でありました。前二者は海軍操練所がこれに当り、後者は明石藩がこれに当たりました。前二者は元治元年(一八六四)六月にほぼ完成しましたが、後者は未完に終ったようです。
 海軍操練所は、海軍所、海軍営、海軍局、操練局といろいろの名でよばれていますが、勝海舟の建議によるもので、船たば場を中心につくられました。なぜ東京湾につくらないで神戸につくられたかですが、摂海防備の一環として生れたものであり、その勝の運営をみていると、中央から離れて自由にふるまいたいということもあったかもしれません。
 文久三年(一八六三)四月二四日、海舟は神戸村海軍所造船所御取建御用並、摂海防禦御用を命ぜられています。元治元年(一八六四)五月にはいままであった大阪船手役が廃せられ、その付属船舶および人員を神戸操練所付にし、さらに長崎製鉄所もこれに付属させました。観光丸・黒竜丸の二隻を付属船とし、兵庫高取山の炭坑を操練所に属させ、その産炭の余りを売って費用にあてることにしました。また、朝鮮・上海・広東方面への練習航海も許されていました。
 元治元年(一八六四)五月二九日に生徒募集の布告をしています。塾長は坂本竜馬でした。ところが、ここに学ぶ者は、勝の方針として幕府派・反幕派の区別なく海軍を志すかぎりのものを収容したので、生徒の中には過激な行為に出るものがいました。これらの中に幕吏の逮捕を受けるものがあったり、また、幕府の許可を受けないで上海から毛布を購入したりして、勝はその責任を問われました。七月蛤門の変に関係した長州藩の生徒があったために、幕府の嫌疑を受け、海舟は一一月江戸に召喚を受けその職を免ぜられるに至りました。大阪湾防備のことも、長州征伐のことなどで放置されがちで、慶応元年(一八六五)三月一九日をもって海軍操練所は廃止されました。
 海舟が生徒を集めていた私塾は今の大和証券・ダイエーのあたりにあったといわれ、勝安房守(のち海舟と号する)が軍艦奉行の職にあって、神戸海軍操練所の責任者を兼ねていたとき、徳川家茂将軍の威徳をたたえるため、操練所の構内に建てようとした、海軍営碑は諏訪山金星台に建っています。期間こそ短かかったのですが、神戸の幕末史として話題に富むところです。
 長州征伐のころから、それまで幕府側について行動していた薩摩藩の考え方に変化が起き、長州藩とともに幕府を倒す方向に進んでいきます。そして、長州藩の木戸孝允、薩摩藩の西郷隆盛らの働きと、両藩の間をとりもった土佐藩の坂本竜馬・中岡憤太郎の骨折りで、慶応二年(一八六六)にいわゆる薩長同盟が成立します。以後、幕府を倒す運動は急速に進展してゆきます。
 このような動きを見て、土佐藩主山内容堂らは、ときの将軍十五代徳川慶喜に対して、政権を朝廷(天皇)へ移すことをすすめます。慶応三年(一八六七)一〇月一四日、将軍慶喜は、武力で幕府を倒そうという動きに先立って幕府政権を朝廷にひきわたしました(大政奉還)。

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    石堡塔実測図(神戸三菱造船所蔵)

    本図は上図中央にある石堡塔で、大正七年の実測。それによれば、「石堡塔は花崗石で積上げ、一箇の大きさ長六尺五寸、幅四尺七寸五分、高四尺…」
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    和田岬砲台平面図(勝安芳著 陸軍歴史上巻所収)

    文久三年四月起工、元治元年八月竣工、経費約二萬五千両、神田兵右衛門が出納に当る。当時、中央の砲台を石堡塔と称した。
  • 写真海軍操練所跡(生田区海岸通)
  • 写真勝海舟設計に基づいて築かれた和田岬砲台(三菱重工神戸造船所内)
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    坂本龍馬 幕末の勤王家・土佐の藩士

     剣を千葉周作、海軍航海術を勝海舟に学んだ。文久3年4月、海軍操練所が設けられると、陸奥宗光(4代兵庫県知事・外相)・伊東祐亨(連合艦隊司令長官)らとここに入り、海軍塾頭に挙げられた。薩長連合にも力を尽したほか、後藤象二郎を通じて将軍慶喜に対し、大政奉還を建白させた。享年33歳。
  • 写真坂本龍馬が自身の心を詠んだ歌
  • 写真佐久間象山が勝海舟に与えた扁額
  • 写真坂本龍馬が土佐にいる姉に、神戸の海軍操練所のようすを詳しく知らせた書簡(御物)
  • (釋 文)

    此頃は天下無二の軍學者勝麟太郎という大先生に門人となりことの外かはいがられ候て先きやくぶんのようなものになり申候ちかきうちには大坂より十里あまりの地ニテ兵庫という所二ておおきに海軍ををしへ候所をこしらへ又四十間五十間もある船をこしらへでしどもニも四五百人も諸方よりあつまり候事私初榮太郎なども其海軍所に稽古學問いたし時々 船乗のけいこもいたしけいこ船の蒸氣船をもって近々のうち土佐の方へも参り申候そのせつ御目にかかり可申候私の存し付ハこのせつ兄上にもおおきに御とふいなされそれわおも しろいやれやれと御もふしのつかふにて候あいたいせんももふし候とふり軍でもはしまり候時は夫までの命ことし命あれハ私四十歳になり候をむかしいいし事と御引合なされたま へすこしヱヘンかをしてひそかにおり申候達人の見るまなこハおそろしきものとやつれやつれにもこれあり猶ヱヘンヱヘンかしこ
    五月十七日
    龍馬
    乙大姉御本
    右の事はまつまつあいたからへもすこしもいうてハ見込のちかう人あるからハをひとりニて御聞おきかしこ
  • 写真坂本龍馬をはじめ数々の勤王の志士を世に送りだした土佐海援隊で使われた教科書
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開港当時の神戸をあらわす「開港神戸之図」

わが国最初の外交交渉の舞台

神戸開港と対外関係

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勝海舟設計による神戸海軍操練所の図

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湊山小学校に保存されている海軍操練所の瓦

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東久世通禧 兵庫鎮台督・兵庫裁判所総督

 明治新政府の参与兼外国事務総督・外国事務局輔として外交の要職につき、また兵庫県初期の地方長官ともなった。明治元年1月、運上所で仏、英、伊、米、普、和公使などに「王政復古の国書」を交付し、また兵庫裁判所の総督となった。

 一八六八年一月一日は慶応三年一二月七日。すでに数日前から諸国艦隊は神戸沖に集結していました。イギリス艦隊はケプル提督乗船の旗艦ロドネイ号外一一隻、アメリカ艦隊は提督少将乗船のハーフォート号外五隻、その外にも外国汽船、日本汽船などが在泊し、朝日の昇るとともに、外国艦船のマストには日章旗が掲げられ、正午を合図に二一発の礼砲が発せられ、六甲山系にこだましました。
 陸上では各国領事館に国旗が掲げられ、海軍操練所のあとに建てられた運上所(明治五年神戸税関と改称)には、兵庫奉行柴田日向守以下が、各国公使と共々開港式を盛大に挙行し、互いに祝杯をかわしたのでした。兵庫神戸の人々は、和洋折衷式の運上所にはめられた窓ガラスに、日光の反射するのを見て、"ビードロの家"といって讃嘆しました。ちょうどそのころ、天から神符が降るさわぎの最中でしたので、老若男女ともにエエジャナイカ、エエジャナイカと街を踊り歩き、たいへんな賑いを呈しました。こうして、神戸港は世界の港として力強く第一歩を踏み出したのでした。

「神戸事件」発生

 慶応三年一二月九日王政復古の大号令が発せられましたが、前将軍が大阪城に大兵を擁している以上、情勢の安定はにわかに見通しがたいものがありました。翌四年(明治元年)正月三日鳥羽・伏見の一戦が起ると、慶喜の官爵は削られ、東征の軍がおこされました。
 この付近での親藩尼崎藩主松平氏の態度牽制のため、一月一日長州藩・備前藩に西宮の警備が命ぜられました。
 西宮出兵の命に接した備前藩士は正月一日から五日の間に約二千人の部隊を出発させました。陸路をとったのは家老日置帯刀(ひおきたてわき)の率いる五〇〇人の部隊でした。一一日神戸を通過しましたが三宮神社前を通過するとき、左右から行列を横断しようとする外国人があり、三班隊長滝善三郎正信が槍をもってこれを刺傷したのでした。
 たまたま来合わせた英国公使パークスが、領事邸として借用していた海軍操練所の屋上から軍艦に信号を送り、英・仏・米共に軍艦から兵を上陸せしめ備前軍を射撃したのです。日置帯刀はことの重大さにおののきました。
 この報告が朝廷に達すると、その驚愕は容易なものではありません。これより先、外国公使に王政復古を布告しようとしていた政府は、一月一五日勅使東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)を神戸に派し、運上所に六ヵ国公使を会して国書を交付し、王政復古を宣言しました。神戸が最初の外交交渉の舞台になったわけです。
 その後、事件の交渉に入り、東久世は彼等に明確なる答弁を与え、岩下方平、伊藤俊輔、寺島陶蔵、陸奥陽之助等この間をあっせんし、交渉は円満に進み、陸上の警備は薩長両藩がこれに当ることになりました。
 この頃、市内を貫通する国道は、広くとも三間を越えない上、交通上の不便が少なくなく、ことに外国居留地が出来てからは、外人との衝突をおそれて、幕府は武庫郡住吉村から市の背後の連山を通過して明石大蔵谷にいたる八里余の新道をつくっていました。これが今断続して残る徳川道です。なぜ、日置帯刀の率いる部隊がこの徳川道を通らず、居留地を通過したかについてはいろいろと論ぜられています。

 事件の処理は、日置帯刀の謹慎、滝善三郎の切腹ということになりました。三宮神社境内に「史蹟神戸事件発生地」の碑があり、滝が二月九日切腹した永福寺あとには滝善三郎正信の墓が建てられました。(現在能福寺町内に移築)
 神戸事件直後またまた二月一五日堺事件、(妙国寺事件)が起こり、成立そうそうの明治政府としては頭の痛いことでした。フランス軍艦デュプレー号乗組水兵一一人が土佐藩兵に堺で殺されるという事件でしたが、堺が開港場でないため、水兵の遺体は神戸の小野浜の外人墓地に葬られ、現在はその墓が修法ケ原外人墓地にあります。
 居留地は安政条約にもとづいて開港開市のことと共に取りきめられたものです。神戸居留地工事ははじめ幕府の手によって着手せられましたが、明治政府によって引きつがれました。明治元年閏四月普請用達島屋久次郎により再着手、六月九日各国公使と東久世通禧の間で兵庫・大坂居留地条約を締結、六月二六日工事完成となったので、七月二四日第一回の競売がおこなわれました。
 居留地の地域は、東生田川、西鯉川、北西国街道、南海岸、この間を一二六番に分け、四回にわたって競売され、永代借地権が設定されました。第二回は二年四月二一日、第三回は三年四月一六日、第三回の競売によって、町の名称も定められました。第四回は六年二月一七日でした。
 居留地は永代借地権と領事裁判権と、外人自治によって、あたかも日本国内における外国領地の観を呈したので、のちの条約改正の努力となりましたが、明治三十二年まで続きました。そうした反面、堂々たる都市計画によって、一〇〇年後の今日まで改造の手を加えることのない街区を作り、貿易の中心となり、文明開花の根元地となりました。
 開港と同時に外人がたくさん来ましたが居留地は未完成で住宅商社のこともかなわなかったので、東生田川から西宇治川の間の雑居を認めました。そしてこれはのちまで続きました。
 無条約国の中国人は当初居留地に住むことを許されなかったので、その近辺それも海岸通りあたりに住んでいましたが、明治十年ごろから次第に元町一丁目南の現在地点に移り住むようになり、ここに南京町を形成しました。

明治前半期の神戸

 神戸事件の当時、兵庫を警備していたのは徳島藩で、兵庫真光寺を本陣とし、治安に努力し、市民の動揺を鎮めましたが、神戸方面には事件突発の一月一一日夜半から長州藩兵が治安に任じていました。

初代知事伊藤博文

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伊藤博文 兵庫県知事(初代)参与兼外国事務局判事

 明治元年5月23日、兵庫裁判所が廃止されて兵庫県が置かれ初代知事となった。会計官権判事として東京に転任するまで、県庁舎の新築をはじめ県政につくした功積は持筆すべきである。

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最初の居留地区画図

 一月一五日政府は行政の仮事務所を開設しましたが、はじめは宿本陣に置き、次に島上町諸問屋会所に移し、一九日切戸町の旧幕府の大阪町奉行所兵庫勤番所で事務を執り、諸事取締りを達しています。
 二二日兵庫鎮台が設けられ、東久世通禧その督となり、右同所で事務をとりました。それよりさき通禧は参与軍事参謀で外国事務総督を兼任していたので、神戸は外国関係事務の最高府の所在地の観を呈していました。岩下方平はその下で外国事務掛となりました。つづいて二二日には寺島陶蔵、二五日には伊藤俊輔が参与兼外国事務掛となりましたが、二月二日には鎮台は兵庫裁判所と改称せられました。ただ総督以下はそのままで、三日政府の職制が改まって、通禧は外国事務局権補となり、岩下・寺島・伊藤の三名は外国事務局判事に任ぜられ、内務と外務とを分掌、また市民の北風荘右衛門や畠山助右衛門も外国事務局の運上所用掛に任ぜられていました。
 ところが三月一九日東久世通禧は横浜裁判所総督に任ぜられ判事寺島陶蔵と共に赴任し、四月二九日神戸は大阪裁判所総督醍醐忠順の兼任するところとなり、岩下また大阪府判事をもって神戸の事務を兼ねたので、兵庫はもっぱら伊藤の支配するところとなりました。
 同四月官制が改まり、府藩県の三治となったから、兵庫裁判所は廃止となり、五月二三日新たに兵庫県が置かれ、伊藤俊輔初代知事に任ぜられ、切戸町の事務所は兵庫県庁となりましたが、九月今の神戸地方裁判所の地に新庁舎ができ、ここに移りました。
 伊藤知事は二年六月陸奥陽之助の来任をまって(この間に、久我維麿、中島錫胤がありますが、着任しなかった模様)、東上しましたが、その間の治績として大いに見るべきものがありました。橋本藤左衛門の別邸吟松亭に住み、斬髪のため坊主奉行ともよばれましたが、市民の信任は厚かったのです。
 陸奥知事のあとは税所篤権知事となり中山信彬がこれにつぎ、四年七月廃藩置県によって神田孝平県令に任ぜられ、庶政この時から面目をあらためました。
 兵庫県の事務は当初外国事務に力が注がれ運上所をその所管としました。民政関係は四年七月の廃藩置県までは、むしろ旧来のままでした。庄屋・年寄・名主等に事務裁決権を与え、五人組も存続していました。将来の発展を予想してこれを神戸町とし、一方兵庫も岡方・南浜・北浜を統一して総会所を設けて兵庫町と称し、市郡心得条目をつくって町役人の取扱事務を定めるほか、兵庫隊を組織して保安の任に当らせました。
 兵庫隊というのは、兵庫の市民から隊員を募り、海岸の防備と市内の保安に当てた過渡的な警備隊で、明治元年三月、岩下方平・寺島陶蔵が兵庫の先覚者と議して組織したものです。北風荘右衛門は司令補佐兼取締となり、安田荘兵衛がこれを助け、北風大助、南条新九郎らが小隊長となりました。隊員一五〇名に及びましたが、二年四月解散しました。
 その後も警察事務は確立せず、市中取締りというものも夜警程度にすぎませんでしたが、四年にポリスが置かれ、五年九月以降司法と行政の警察事務が明確となり、八年には邏卒が巡査となり一〇年には警察署が置かれます。
 兵庫・神戸の市政は、明治四年戸籍法の改正とともに、六月には、第一兵庫岡組、第二兵庫北組、第三兵庫南組、第四神戸上組、第五兵庫中組、第六福原廓の六区に分け、従来の名主が戸長の職務を取扱い、八月一〇区にしましたが、一〇月第一区を八部郡神戸としこれを三組に、第二区を同郡兵庫とし四組に分けましたが、その四番組は坂本・荒田・奥平野・石井・夢野・烏原・奥妙法寺・口妙法寺・車・白川の各村としました。さらに七年四月には組の区分を廃し、兵庫第四組を離して、神戸、兵庫の二区としました。
 一方、兵庫県の議政機関はすこぶる進歩的思想に基くもので、明治六年早くも民会議事章程を布達し、議事役を人口に応じて選出し、選挙人は一六歳以上の不動産所有の戸主としました。区会は区長が議長となり、区内の町村会にその町村内正副戸長から二名宛を議事役として、県令または参事を議長として年二回開くこととなりました。当時民選議院設立のやかましい時でしたが、神田県令は地方官会議でも種々建策しました。
 当時は、古くからの兵庫の町と、神戸村・ニッ茶屋村・走水村の三つを合わせた神戸の町と二つにわかれ、その中間にはほとんど人家がありませんでした。しかし、その空白の地区に兵庫県庁の新築、福原遊廓の設置、湊川神社の創建が行なわれ、そののち明治七年には阪神間に鉄道が開通して神戸駅が設けられ、それ以来この付近は急激に発展しました。
 明治一二年、郡区制が実施されて兵庫・神戸に坂本村を加えて「神戸区」とし、現在の相生町一丁目に神戸区役所が設けられて、全区を統一する行政機関となりました。

  • 写真伊藤博文が好んで訪れ自分の号をとって"春畝館"となづけた大倉喜八郎の別荘(現在・大倉山老人いこいの家)
  • 写真能福寺(兵庫区北逆瀬川町)に残る滝善三郎の碑
  • 写真神戸事件発生の地である三宮神社(生田区三宮町)
  • 写真滝善三郎が母と姉に宛てた遺言状)
  • 写真外人墓地に残る堺事件の戦没水兵の墓

明治22年・神戸市誕生 国鉄東海道線開通

明治初頭の行政と土木事業

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明治22年4月に神戸市開庁を報じた新聞記事

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初代神戸市長鳴滝幸恭

 明治22年5月、市長に就任、水道布記の必要性を説いた。しかし、財政上の理由から時機尚早論や、かんがいの水を失うことをおそれて反対する農民がいたが、市会議員、有識者などの賛同をえ、ようやく水道布設にこぎつけた。このようなこともあって、鳴滝市長は「水道市長」と呼ばれている。

 新政府のもと土木事業は大いに起こりました。元居留地八万坪の再埋立整理も大事業でありここには明治三年ごろから商館も漸く建築を見るに至りましたが、市街の土木工事として建築を見るに至りましたが、市街の土木工事として最初のものは西国街道の改修でした。
 仲町。福原遊廓が弁天浜に設けられたのは明治元年ですが、その付近一帯の地を神戸停車場内に予定せられたので、移転地を湊川東の荒田方面に求め、工事を終って移転すると同時に仲町一帯九万八〇〇坪の開設工事が六年一一月に完了して、兵庫・神戸の中間部の市街地ができ上りました。
 山手道路。山手一帯の道路の開設は、明治四年その一部が完成、五年には東西三条南北五条の道幅六〜七間の計画をしましたが、六年多少の変更を加え、九月完成、一一月には山本通以下の町名がつけられました。
 栄町の大通。東西の交通を中心とする神戸としては、将来の発展に備えて、幅一〇間の大道をつくったのは六年一一月ですが、大事業でした。アメリカに学んだ県官関戸由義の主唱によるものですが、当時「無用の大道」と呼ばれていました。その後各方面に大改修が加えられました。
 湊川架橋。湊川神社前から六間幅の道路を西に延長し柳原に至る工事に伴い、それまで橋のなかった湊川に幅四間、長さ一五間の木橋を架け、新町橋と名づけましたが、のち石橋となり新橋とよばれました。
 生田川付替工事。生田川はもと加納町から税関の線を流れていましたが、居留地ができてからもしばしば氾濫したので、外人から苦情が出ました。四年六月これを東に付替えたのが今の新生田川です。旧生田川敷六万坪のうち、中道以北を加納宗七等が請負い、南半は税関用地に利用していました。今神戸の中心地となっていますが加納町の名があるのはそのためです。
 新川運河。和田岬を迂回する小船がしばしば風浪の難に遭うので、これを救うために兵庫県が計画しましたが、資金の関係でなかなか着手できませんでした。神田兵右衛門が奮起して和田堀から駒ケ林海岸にいたる大運河を計画しましたが、七年これを縮小して島上町から出在家町に至る半円形の計画とし、困難と戦いながらも九年五月完成しました。所要経費一三万円。その他弁天浜埋立工事、海岸石垣の築造、税関船入場の改修、布引遊園、東遊園地の開設等、土木工事が相ついで起こり、市況は活発となりました。
 この前後から、明治政府の殖産興業政策に呼応して、造船・海運などいろんな産業がおこり始め、兵庫商法会議所というものも設けられます。明治一七年には、民間会社によって桟橋と倉庫がつくられ、大型外国船の出入に便宜を与えました。

明治後半期の神戸

 明治七年頃から一〇年代にかけて盛んになった板垣退助をはじめとする、いわゆる自由民権運動に対応して、明治政府は、大日本帝国憲法の制定(明二二)、国会開設など、欧米各国にならって政治制度の近代化をすすめます。
 明治二二年四月には市町村制が実施されて、これまでの神戸区の地城に荒田村と葺合村を加え「神戸市」が誕生しました。東川崎町(現在の相生町)の神戸区役所を神戸市役所と改め、市会議員三六名と市長(初代市長鳴滝幸恭)を定め、六月二一日には開庁式をあげますが、この年は、市町村に始めて自治権が与えられた記念すべき年といえます。
 この同じ年、新橋(東京)・神戸間の東海道線が全線開通し、市内においても道路の整備、拡張、新設が行なわれました。明治二九年の湊川堤防決壊による大洪水をきっかけとして、湊川の付替えも行なわれました。それよりさき、明治二一年には電灯の点灯が開始され、二六年には電話局が開設されています。明治三〇年に着工した上水道は三三年に給水を開始します。三八年には阪神電車が開通して、滝道に終点を設け、鉄道と並んで商業都市大阪とを結んで、このあたりの繁栄のもととなりました。明治四三年四月、春日野・兵庫間にはじめて市街電車が開通しました。
 開港以来、貿易港として異常な発達をとげた神戸も、工業地としては今一歩の観がありました。しかし、明治の産業革命のきっかけともなった日清・日露の両戦争のあとは、工業界も著しい発展を見せました。明治三八年末にはわずか一七に過ぎなかった工業会社も四〇年には二三七を数え、戦後の経済界の好況は輸出入の数字の上にあらわれ、空前の巨額を記録しました。海運界も造船と並んで発展し、外国航路の延長と新しい航路の開拓を進めていきました。
 明治二九年、林田村ほか二ヵ村の合併、あいつぐ耕地整理、海面の埋立等により、神戸市城はおいおい拡張されていきます。明治四〇年九月には、神戸港の築港計画のうち、第一期工事が起工されて、世界に誇る神戸港の第一歩を踏み出しました。
 このように、明治時代は、改革と創業から将来への発展体制が一応整った時代といえます。

大正・昭和の神戸

 大正七年には市街電車が市営で走り、大正九年に須磨町が合併され、千苅貯水池を水源池とする水道拡張工事がおこなわれ、大正時代は神戸にとってまさに市勢大発展の時期となりました。
 昭和に入ってからは、十三年に阪神大水害の痛手をうけ、さらに昭和十六年大平洋戦争に突入してからは、市街の大半が焼失してしまいます。昭和二十年八月十五日、さんたんたる姿で神戸は敗戦をむかえ、戦後の混乱のどん底から立ちあがり現在の国際港都に発展したのです。

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    神田孝平 兵庫県令(7代)蘭学者、開成所頭取(東大の前身)

     明治4年兵庫県令に任命され神戸の地先権の解決、道路の改修、土木工事の設計もした。関西最初の日刊紙「神戸港新聞」を発行させるなど文化知事であった。
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    加納宗七 加納湾開発、加納町市街建設

     紀州の酒造り、廻船業の家に生まれ、神戸に来て材木、廻漕を業とした。生田川が豪雨のたびに氾らんして外国人の苦情が絶えなかったため生田川付替工事がされたあと、神戸税関までに新しい街を建設、加納町と名づけた。明治6年、小野浜に船溜り(加納湾)を開き16年波止場を増設した。
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    北風正造 兵庫廻船問屋、兵庫新川開発の発起人

     鳥羽伏見の戦のとき有栖川宮の営中におり、宮が東征総督として征途につかれたとき、駿馬と三千両を軍用に献上した。7年、新川社を起して兵庫新川の開発事業に関係したほか実業界にも貢献した。
  • 写真兵庫県知事伊藤博文が北風正造の功績をたたえて建てた碑
  • 写真開通当時の市街電車路線図
  • 写真兵庫運河の建設に貢献した八尾善四郎の銅像(兵庫区浜中町)
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港を見おろす諏訪山に立つ勝海舟自筆の「海軍営の碑」
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