201号表紙

No.201(平成1年7月)

特集:

こうべ総集編(下)

歴史 明治・大正・昭和

風俗

●神戸の風俗(No.111,112,113) 押し寄せた舶来文化

 開港と同時に、どっと押し寄せた舶来文化にどう対応すればいいのか、人々の当初の戸惑いは相当だったに違いない。
 明治5年(1872)、「邑二不学ノ戸ナク、家二不学ノ人ナカラシメン」という新しい学制が発布され、政府は教員に洋服着用を奨励したが、なかなか実行されず、旧態依然の羽織・はかま姿が続いた。やむなく、訓令を出して教員に制服制帽の"職服"を着用させることにしたのは明治28年である。
 それでも、明治15年ごろになると、元町通りに「印度産珈琲放香堂」「市田写真館」「西洋イステイブル家具製造所」、三宮に「西洋小問物売捌所」「各国洋品類西洋金物類」の店が建ち、牛肉を食べさせるレストランも登場、舶来文化はハイカラ商売が先行する形で市民生活へ徐々にとけ込んでいった。


スポーツ

●神戸のスポーツ事始め(No.98,99) 居留地スポーツが急速に普及

 近代神戸は、開港と外国人居留地によってその幕を開けた。居留地は内外貿易の拠点となり、やがて神戸の経済の中心となったが、ここで活躍する外国人たちは忙しい仕事の合間をみては東遊園地に集まり、近代スポーツを楽しんだ。ラグビー、サッカー、ホッケー、テニス、野球、クリケット、陸上競技…。  当時の日本人にとって、走り回ることがなぜそんなに楽しいのか最初は理解できなかったが、好奇心の盛んな学生がまずルールを覚え、外国人たちの間でしばしば試合を行うようになって、日本人へのスポーツの普及は加速した。神戸の背山登山も、居留外国人が母国でのハイキングや狩猟の習慣から、毎朝布引の茶店あたりまで登山をするようになったのが発端である。


鉄道

●交通のあゆみ(No.87.88) 愛唱された『神戸電車唱歌』

 東京〜横浜間に続いて、明治7年(1874)に神戸と大阪を結ぶ鉄道が開通した当時の三ノ宮駅周辺は、家屋約900戸、住民約3700人で、半農半漁の人が多く寂しい田畑の地であった。明治38年(1905)、兵庫県下で最初の民営鉄道として阪神電鉄が大阪出入橋〜神戸三宮問に開通した時も、出入橋が仮駅舎であったほかはどこもホームはなく、人々は青天井の下で電車に乗り降りした。
 世界の人もあつまりて 人口38万余
 神戸の市街を西東 通う電車の面白さ
 これは明治43年(1910)、神戸電気鉄道(のち市電)の春日野道〜兵庫間が最初の、市街地電車として開通した時の『神戸電車唱歌』の一節である、胸をときめかせながら電車を見た人々の素朴な気持ちが伝わってくる。


〈歴史〉風俗、スポーツ、鉄道
●なつかしの市電 N0.8 昭和47年(1972)2月
●神戸市営地下鉄開業 NO.56 昭和52年(1977)3月
●交通のあゆみ N0.87、88 昭和54年(1979)12月、昭和55年(1980)1月
●神戸のスポーツ事始め N0.98、99 昭和55年 (1980) 11月、12月
●ポートライナー N0.101 昭和56年(1981)2月
●神戸の風俗 NO.111、112、113 昭和56年(1981)12月、昭和57年(1982)1月、2月
●神戸昭和史60年 N0.147、148、149 昭和59年(1984) 12月、昭和60年(1985)1月、2月
●市営地下鉄延伸 No.153 昭和60年(1985)6月
●新聞に見る神戸100年 No.198、199 平成元年(1989)4月、5月


  • 神戸電気鉄道(のち市電)の開業当日(明治43年4月)の祝賀電車 No.198
  • 山陽電鉄須磨駅に仲良く並んだ、左から阪急、山陽、阪神電鉄の特急電車。昭和43年4月、神戸高速鉄道の開業によって4私鉄の相互乗入れが実現、このような情景か見られるようになった 88

    市営地下鉄(新長田〜名谷間)開業のテープを切る宮崎辰雄市長と吉本泰男市会議長(昭和52年3月、新長田駅で)新神戸〜西神中央駅間の全線開通は昭和62年3月 56
  • 開業当日(昭和56年2月)のポートライナーの窓から、建設中のポートピア'81会場に見入る乗客 No.101
  • 市民の足として、半世紀にわたって活躍した最後の市電に名残を惜しむ宮崎辰雄市長と市民 No.8

沿線スケッチ

●沿線スケッチ(188) 昭和63年(1988) 6月 頑張ってるな

 毎日同じ電車に乗って、沿線風景はもう見飽きたと思っていても、ちょっと視点を変えるとあれっと思うような情景に出くわすものである。川の鉄橋をゴーと渡る電車、この電車の窓から川を見るのと、川から電車を見たのとでは趣はまるで違う。電車が、場所から場所へ移動するための単なる機械ではなくなって、頑張ってるな、スマートだなと、急にわが愛車を見るようないとおしい気分になってくる。

(写真はすべてN0.188)

  • ビルの谷間を行く新交通ポートライナー
  • 阪急電鉄の住吉川鉄橋。白く光る水、背景の山並みもよく効いている

    新幹線(右)と立体交差する市営地下鉄(名谷〜総合運動公園駅間)。こんな出会いの"瞬間"にはなかなか出くわさない
  • 塩屋の異人館と山陽電鉄。クリーム色に赤いラインを付けた車両と異人館が調和して美しい

    急カーブしながら高みへゆっくり上がってくる神戸電鉄(丸山〜鵯越駅間)

観光(下) 六甲山・有馬

思い出 カラー・シリーズC

下町の駄菓子屋さん

 下町の様変わりは早い。兵庫区西出町にあったこの古い駄菓子屋さんも今はしもた屋になってしまった。8年前にここを訪れた時、人の良さそうなおじさんが「子供らは、ここへ来るんが楽しみなんや。家にもっとええ菓子があっても、10円玉握って、店へ来てあれこれよるのが楽しいんやろな」と言っていたのを今も覚えている。そんな子供がだんだん減り、おじさんも体調を悪くして、店を続けることができなくなったのだろう。108 昭和56年(1981)9月


●国立公園・六甲山(No.166) かけがえのない財産

 六甲山は、明治の初期には伐採などにより裸同然の山だったが、人々の努力により植栽が進められ、現在では阪神大都市圏に接する瀬戸内海国立公園の一部として年間約700万人もの登山者が訪れている。
 豊かな四季の変化とともに、各種の観光施設、多種類の植物、野鳥・昆虫、そして渓流、地形奇観、雄大な眺望などに恵まれ、朝に夕に計り知れないほどの活力と精神的な豊かさを与えてくれる、かけがえのない私たちの財産である。


〈六甲山〉
●伝説の六甲山系 N0.46、47 昭和51年(1976)3月、5月
●六甲の原始然を探る No.106 昭和56年(1981)7月
●新緑の六甲 No.129 昭和58年(1983)6月
●冬の摩耶・六甲〜空中散歩〜 N0.160 昭和61年(1986)1月
●国立公園・六甲山 No.166 昭和61年(1986)8月
●神戸の観光 N0.178 昭和62年(1987)8月
●涼を求めて No.189 昭和63年(1988) 7月


〈有馬〉
●有馬 No.85 昭和54年(1979) 10月
●有馬温泉 No.196 平成元年(1989) 2月


  • 摩耶自然観察園のあじさい池。六甲・摩耶山上に群生する市民の花・あじさいは、夏の六甲の象徴だ 166

    湯のまち有馬を象徴する天神泉源。有馬にはこんな泉源が数10か所あり、各泉源から旅館や保養所に温泉が送られている No.196

    有馬の歴史をしのばせる道端の石仏 85
  • 六甲山上から見る1000万ドルの夜景(六甲展望パレスで) 178

    表六甲(六甲ケーブル接続)と有馬を結ぶ六甲有馬ロープウェーのゴンドラから山懐に抱かれた有馬温泉街を望む 160

    六甲山牧場の綿羊  No.177
  • 神戸チーズ館(写真左前方)や綿羊舎(右端)、うさぎ小屋などのある六甲山牧場の新しい利用ゾーン。このゾーンは昭和62年7月に完成、チーズ館には神戸チーズ(カマンベールチーズ)の製造過程が見学できる施設や、チーズ料理を主としたレストランなどがある  No.177 昭和62年(1987)7月

    晩秋の紅葉の下での有馬大茶会(瑞宝寺公園)

    カンツリーハウス 芝生広場や池があり、オールシーズンにぎわっている  No.166

観光(下) 須 磨

●海岸線を行く(上)(No.83) 人・人・人の須磨海岸

 真夏のかげろうがうっすら立ち上って、海岸線一帯はきょうも暑そうである。船は舞子浜の沖合いから東へ向かった。
 舞子公園と移情閣、五色塚古墳を見、…やがて、塩屋を過ぎた辺りから、海は急に湾のようになって鉢伏山が迫ってくる。沖から見ると、山上の白い展望台から緑のじゅうたんを一気に海へ垂らした感じで、そんな海岸線に、国道2号と2本の鉄道が走っているとはとても思えない。
 海づり公園を過ぎると、いよいよ須磨海岸である。きょうもすごい人出だ。砂浜の人・人・人に比べると、海に入っているのはせいぜい2〜3割程度だろうか。浜からはみ出た人が仕方なく海へ入っているように見えておかしくなってくる。


〈須磨〉
●海岸線を行く(上) No.83 昭和54年(1979)8月
●新・山麓リボンの道 No.127 昭和58年(1983)4月
●須磨海浜水族園 No.177 昭和62年(1987)7月


  • 須磨海浜水族園全景 No.177

    須磨ヨットハーバー。夏空に伸びる帆柱が美しい No.83
  • 人気者のラッコ(ラッコ館)   No.177

    海面から真近に見る海づり公園は脚が太く、たくましい No.83
  • イルカの見事なスクリュージャンプ(イルカライブ館) No.197 平成元年(1989) 3月


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思い出 カラー・シリーズD

布引の雄滝(おんだき)

 こんな撮影はもう真っ平だと、あの時は心底から思ったものである。布引の滝で一番大きい雄滝を普通に下から見るのでなく、逆に落ち口からの迫力のある写真が撮れたらと、市役所山岳部のベテランに同行をお願いして出掛けた。10年前の梅雨時だった。
 さて、いざ滝口に近づいてびっくりしたのは地鳴りである。高さ約43mの滝全体からわき上がるゴォーといううなりに、まずどぎまぎしてしまう。滝口の水の速さ、これも言葉では表現できないほどすごい迫力だ。降りかかる飛沫、そして、つるつるの岩肌をした滝口から下をのぞいた時は、足はもうガタガタ…。82 昭和54年(1979)7月


ハイキング

●六甲全山縦走(30) 六甲全縦に先べん

 市民のグラフ「こうべ」が六甲全山縦走を特集したのは昭和49年(1974) 9月で、この年の秋から縦走コースに道標を立てるなど市が整備に力を入れ、翌50年11月、第1回六甲全山縦走市民大会が実施された。採り上げたタイミングがよかっただけのことだが、結果として六甲全縦に先べんをつけた形になり。スタッフ一同気分をよくしたものである。
 特集では、コースの紹介のほか、中学生時代から何度か縦走経験のある宮崎辰雄神戸市長を交え、会社員や主婦などの縦走経験者4氏に、その思い出や神戸と六甲山のかかわり、山歩きのだいご味などについて話し合っていただいた。これがまた楽しい座談会で、この話に触発されて全縦を目指すようになった人も多いことだろう。


〈ハイキング〉
●六甲全山縦走 No.30 昭和49年(1974)9月
●六甲の谷筋 N0.37 昭和50年(1975)5月
●秘境 屏風谷 No.51 昭和51年(1976)9月
●徳川道を探る No.68 昭和53年(1978)5月
●布引の渓谷 No.82 昭和54年(1979)7月
●六甲の尾根道 No.96 昭和55年(1980)9月
●秋のミニハイク No.133 昭和58年(1983)10月
●山道の伝説 No.140 昭和59年(1984)5月
●六甲を歩く No.145 昭和59年(1985)10月
●六甲の渓流を歩く No.157 昭和60年(1985) 10月
●森林浴ハイキング No.163 昭和61年(1986)5月
●こうべ冬の散策 No.172 昭和62年(1987)2月
●続・森林浴ハイキング No.187 昭和63年(1988) 5月


  • 六甲山系随一の尾根道といわれる黒岩尾根。市が原天狗峡から摩耶山まで急登の連続だが、高みからの眺望はすばらしい  No.96

    布引の滝を代表する雄滝、滝の水量を多くするため、市水道局は昭和62年夏から観光シーズンの週末や祝日などに上流の布引貯水池の水を放流、訪れる観光客の目を楽しませている  No.178 昭和62年(1987) 8月

    布引の滝断面図
  • 栂尾山展望台。神戸の背山には展望台が数多くあるが、これほど眼下に住宅地を見下ろせる所は少ない。高倉台の前方に、鉄拐・旗振山の山並みと明石海峡、淡路島が一望に見渡せる 187

    北区山田町の丹生山林道(脇参道)。植林後50年以上たっており、杉林の下に生えているイノデ(シダの一種)の種類・株数の多さは兵庫県下でも有数だ  No.187

    六甲で一、二の渓谷美を競う西山谷の滝。高さ約20b、滝の前での一服はすがすがしい。熟練者向きコース  No.157
  • 六甲全縦の難関・菊水山の取り付き口。昭和49年ごろは登山道の階段はまだ整備されておらず、急坂にロープが張ってあった No.30

    トエンティクロス 清流を飛び石伝いに右、左に折れ曲がること20回、ということでこの名がついた。下流で布引貯水池に注ぐ 157

    須磨アルプスの険しい岩場を歩く第1回六甲全縦市民大会の参加者 44 昭和51年(1976)1月
神秘的な 雄滝の甌穴(おうけつ)
 布引の滝は、下から雌滝、鼓滝、夫婦滝、雄滝があって、この四つの滝の総弥が「布引の滝」である。このうち一番大きい雄滝は、滝の落ち口付近に五つの水のえぐった深い甌穴(横穴)があいていて、水はこの穴に入ってはまた出ていくという形で、白い飛沫を上げながら落下する。伝説によると、甌穴にはそれぞれ乙姫様が住んでいて、船人を守ったり、また樹木を茂らせ、穀物を実らせるなどして人々を助けているといわれている。  長い年月をかけて大自然がつくったこの甌穴は、地質学的にも珍しいそうである。

史跡あれこれ


現在のJR石屋川トンネル付近。
一番下が道路のトンネルで、その上を川が流れ、
さらにその上を高架のJR線が通っている。

●石屋川トンネル跡(No.123)

 明治の初めにわが国最初の鉄道トンネルとして完成したJRの石屋川トンネル跡は、今は川の上を高架線が通っているが、かつては現在の住吉川トンネル同様、長らく川底トンネルで鉄道の上を石屋川が流れていた。
 神戸〜大阪間に鉄道が開通したのは明治7年。当初、海岸地帯に計画された路線は酒造家から反対されたため、明治3年10月から、天井川を形成していた石屋川、住吉川、芦屋川に次々とトンネルが掘られた。



板宿八幡神社の境内にある飛松天神社

●「飛松(とびまつ)岡」と「匂(におい)の梅」(No.129)

 菅原迫真が九州へ左遷のとき、京都から愛していた松が菅公を慕って飛んで来たという伝説の地が須磨の飛松岡(大手町9丁目)である。この山の東端、板宿八幡神社の境内に今も老松の巨株が保存され、飛松天神社として祭られている。
 長田区の「梅ヶ香町」も菅公にちなむ伝説の地名である。九州へ左遷の途中、大輪田の泊に上陸したとき、えも言われぬ梅の香がするので、それを慕ってこの地まで来て「風寒み雪にまがへて咲く花の 袖にぞうつれ匂ふ梅が香」という歌を詠んだといわれている。



神戸最古といわれる石板仏(石水寺)

●「名谷合戦」と石板仏(No.131)

 須磨ニュータウンの核としてにぎわっている市営地下鉄名谷駅は、かつては「スッポコ(行き止まり)谷の名谷」と呼ばれ、人も住まない草深い丘陵地帯だった。  名谷駅から垂水方面行きのバスに乗って二つ目、奥畑の集落に石水寺がある。寿永3年(1184年)の源平合戦の際、この辺りでも「名谷の合戦」があったという云い伝えがあり、その時の戦死者の一人、平師盛(清盛の弟)を弔ったという石板仏が石水寺にある。石板仏は、付近の砂岩で作った阿弥陀仏の浮き彫りで、神戸では最古のものといわれている。



住吉川の水車場跡

●住吉川と水車(No.133)

 六甲山地を流れる河川は急流であるため、古くから水車を使った事業が盛んであった。住吉川沿岸には17世紀初めから水車が架けられるようになり、明和7年(1770)、油絞株による製油が幕府から認められると、菜種や綿種による油絞りに水車が活躍し始め、灘地方は有力な油産地となった。
 明治期に入ると、酒どころ灘の精米はもちろん製粉も活況を呈するようになり、大正初期の全盛時には、川筋の水車場は約80、約1万基のうすが据えられていたという。今は1基も稼動していない。


〈史跡あれこれ〉

122 昭和57年(1982)11月〜133 同58年(1983)10月、12回連載
●神戸高商跡No.122●石屋川トンネル跡●駒ケ林と左義長No.124 ●岡本・保久良の梅林No.125●黄色たばこ発祥の地・岩岡No.126●御影町郡家の複合遺跡No.127●「栗花落の井」と「栗花の森」No.128●「飛松岡」と「匂の梅」●阪神大水害記念碑No.130●「名谷の合戦」と石板仏●敏馬の浦と敏馬神社No.132 ●住吉川と水車


思い出 カラー・シリーズE

六甲の樹氷

 神戸でも、積もる雪というのはたいてい夜降るもので、朝起きて外を見たら、道や屋根が白く光っていてあれっと驚くものである。そんな朝は決まったように快晴で、寒い。市街地で零下2度とか3度、六甲山上はもっと雪は深く、冷え込みもきつい。六甲のきらめく樹氷をねらうのはこんな日(一冬に何日もあるわけではないが…)、しかも、午前中である。午後になると、朝のうちの快晴がうそのように再び雪雲になることが多い。
 六甲最高峰付近のこの樹氷の前方に見える山は湯槽谷山で、北からの風通しがよくないとこんな樹氷にはならない。No.172 昭和62年(1987) 2月


街並み・建物

●神戸の街並み探訪(No.158,159) 身近に味わう景観

 街並みの景観には大きく分けて二つのタイプがある。一つは、山や海、あるいは高層ビル屋上などから眺めるパノラマ景観と、もう一つは、特色のある通りや建築物を実際に訪れ、その場所特有の雰囲気を身近に味わう景観である。
 パノラマ景観がどちらかといえば絵はがき的な美しさであるのに対し、身近な景観は、そこでの生の市民生活や都市活動を見ることによって美しさだけではない、さまざまな表情や、地域形成の過程を感じ取ることができる。特に長い年月を積み重ねた歴史的景観は、市民のアイデンティティをはぐくむ意味で都市にとって貴重である。


〈街並み・建物〉
●神戸の建物 No.66、67 昭和53年(1978)3月、4月
●続・神戸の建物 No.75、76 昭和53年(1978)12月、昭和54年(1979) 1月
●神戸のまちなみ No.135、136 昭和58年(1983)12月、昭和59年(1984)1月
●神戸の街並み探訪 No.158、159 昭和60年(1985)11月、12月
●神戸の建物 N0.182、183 昭和62年(1987)12月、昭和63年(1988)1月


  • 歴史を感じさせる松並木の美しい須磨離宮道 159

    ポートアイランドの中核施設とポートライナー。右、ポートピアホテル(第4回神戸市建築文化賞)、中央、神戸国際交流会館、左、ワールド本社ビル(第4回神戸市建築文化賞)。ともにコンベンション都市、ファッション都市づくりの代表的施設である 182

    右はメリケンパークの神戸海洋博物館(第5回神戸市建築文化賞〈ライトアップ賞〉)、左は中突堤のポートタワー(建築学会、建設業協会)、特に夜間のライトアップ(照明)は神戸港のシンボルである  No.183
  • ポートアイランド・ファッションタウンのオールスタイルビル(第5回神戸市建築文化賞〈オープンスペース賞〉)。彫刻を配した開放的な前庭がファッションアベニューに潤いをもたらしている No.191 昭和63年(1988) 9月

    明治の居留地洋風建築の面影を今に伝える潟mザワ本社。旧神戸居留地に残る唯一の商館遺構で、さる3月、文化財保護審議会は重要文化財として指定するよう文部省に答申した。現在改築中(中央区浪花町) 198 平成元年(1989)4月
  • 個性的な風格を感じさせる中央区北野町の小道 158

    灘区長峰台の坂道。今春放映されたNHKテレビドラマ「花の降る午後」の舞台になった 159

文 学

●神戸と文学(.33,34) 「暗夜行路」と砂浜の漁船

 志賀直哉の「暗夜行路」に、舞子の海岸風景をえがいた次のような一節がある。
「塩屋舞子の海岸は美しかった。夕映えを映した夕なぎの海に岸近く小舟で軽く揺られながら胡坐をかいて網をつくろっている船頭がある。白い砂浜の松の根から長く綱を延ばして、もう夜泊りの仕度をしている漁船がある……」。
 昭和33年に芸術選奨文部大臣賞を受けた椎名麟三の「美しい女」も、この一帯の海岸に打ち寄せる波を「ええっ、しょうがないんや、これでもしょうがないんや、と調子をとってぶつかりながら闇へ高々と白い飛沫をあげていた。…」と表現、対人閥係でみじめな立場におかれた主人公の切ない気持ちをやわらげている。作者は昭和3年(1928)に今の山陽電鉄に入社、車掌として、この海岸線を毎日眺めて過ごした。


〈文学〉
●神戸と文学 No.33、34 昭和49年(1974)12月、昭和50年(1975)1月
●こうべの詩歌 No.50 昭和51年(1976)8月
●神戸の坂と文学 No.62、63 昭和52年(1977)11月、12月
●文学にみる須磨 N0.104 昭和56年(1981)5月


  • 有馬温泉の古い旅館街。幸田露伴が滞在した旅館(左手前)は今は薬局になっている。露伴は明治23年(1890)、現在のJR住吉駅からかごで六甲を越え、6日間有馬に遊んだ。この旅の模様は露伴の紀行文集「枕頭山水」(明治26年刊)に詳しい  No.34

    鉢伏山の中腹に立つ子規と虚子の句碑。「ことづてよ須磨の浦わに昼寝すと」子規、「月を思ひ人を思ひて須磨にあり」虚子。心の通い合った美しい句である 104
  • 椎名麟三の「美しい女」など、多くの文学作品の中に今も生きている須磨海岸。「美しい女」は、作者が今の山陽電鉄の車掌として勤務した昭和5年ごろの生活を下敷きとしてこの小説を書いた No.34

    明治28年(1895)、日清戦争に従軍記者として大陸に渡った正岡子規は、帰国の船中でかっ血し、須磨浦にあした須磨保養院で療養した。その際、子規を見舞った高浜虚子は「…我等は松林を通って波打際に出た。其処には夢のやうな静かな波が寄せていて、…眠るやうな一帆はいつまでも淡路の島影にあった」と回想している。須磨浦公園の木陰のべンチに腰をおろして眺める須磨の海は、今も見あきることがない 104
  • 鉢伏山から淡路島を望む。貞享5(1688)、松尾芭蕉は鉢伏山の尾根を何度もすべり落ちながらはい登り、「淡路島手に取るように見えて、須磨・明石の海左右に分る」と『笈の小文』に書いている。山の中腹に芭蕉の有名な句碑「蝸牛角振り分けよ須磨明石」がある 104

    北野の坂道。昭和7年、北野を訪れた堀辰雄は「旅の絵」という作品の中で、その情緒を「山手のこのへんの異人屋敷はとれもこれも古色を帯びていて、なかなか情緒がある。大概の家の壁が草色に塗られ、それがほとんど一様に褪めかかっている。そうしてどれもこれもお揃いの鎧扇が、或いはなかば開かれ、或いは閉ざされて…」と書いている。 写真のみNo.189 昭和63年(1988) 7月

 ポートアイランドから市街地を望む。写真中央のポートピア大通りと赤い神戸大橋の前方に、外観の完成した市役所新庁舎が建ち、その右側に黒っぽい商工貿易センタービルと新神戸オリエンタルホテル。また左側に、白いセンタープラザに続いて太陽神戸銀行本店ビル、さらに海寄りのメリケンパークには、ホテルオークラ神戸と海洋博物館・ポートタワーが仲良く並んでいる。ポートアイランドが手前にあるため、海から見た神戸の顔は一段と表情が豊かで、ダイナミックである(撮影・ポートピアホテル屋上)



みなと・船

●神戸港と客船(No.161)昭和61年3月 クルーズ・ブームを反映

 「日本一」の多い神戸港は、来航客船の分野では横浜港に先を越されていたが、最近では横浜を抜いて国内トップに躍り出た。
 データによると、昭和61年の横浜港の外国籍船の入港予定は31隻だが、そのうちナホトカ航路の定期船が23隻を占めているので、いわゆる豪華客船といわれる観光船は6隻で8回しか入港しない。一方、神戸港は外国籍船の入港は26隻が予定されており、10隻が計26回入港する。その内訳も、クルーズ・ブームを反映して世界一周、太平洋クルーズ、中国クルーズ、洋上大学などバラエティに富んでいる。
 このほか、昭和60年夏から就航した日中国際フェリーの「鑒真(がんじん)」を加えると、入港数だけでも50隻を超え、質・量ともに日本一になる。


〈みなと・船〉
●神戸のみなと No.27 昭和49年(1974)6月
●神戸の燈台 No.69 昭和53年 (1978)6月
●帆船のふるさと神戸 No.124 昭和58年 (1983) 1月
●みなとの24時間 No.137 昭和59年 (1984) 2月
●神戸港と客船 No.161 昭和61年(1986)3月
●神戸開港120年祭 No.174 昭和62年(1987)4月
●神戸の定期航路 No.184 昭和63年(1988)2月


  • ポートターミナルに着岸したイギリスの豪華客船「キャンベラ」(44,807総d)。船客1,500人を乗せ世界一周の途中、神戸に寄港した No.161

    内海航路の基地・中突堤は別府航路はじめ、四国・淡路などを結ぶ各種の客船が発着する  No.161
  • 車の出入りでにぎわう夜の神戸フェリーセンター。1日に10航路28便が発着する日本一のフェリー基地である No.137

    ポートターミナルに仲良く並んだ日本丸(手前)と海王丸。この日本丸はその後引退し、新しく建造された日本丸が現在活躍している  No.124

    ポートアイランド北公園から港めぐりの船に手を振る子供たち No.161
  • 「神戸開港120年祭・春の祭典」を祝って入港した運輪省航海訓練所の新しい練習帆船「日本丸」(昭和59年建造)。白い帆を張った優美な姿を見るため、たくさんの観客がメリケンパークを埋めた No.175 昭和62年(1987)5月

    ポートアイランドのコンテナクレーン。世界有数のコンテナ貨物量を誇る神戸港の力強い担い手だ No.137

ポートアイランド・六甲アイランド・西神ニュータウン

●ポートピア'81開幕(No.103) 未来がいっぱい

 みんなの目が生き生きと輝いている。ヤングも、子供も、お年寄りも、そして世界の国からやって来たたくさんの人々も、ここで一つにふれ合い、未末への夢をたしかめ合う―。
 新しい未来都市の誕生を祝う祭典、ポートピア'81 (神戸ポートアイランド博覧会)は、ポートアイランドを広く内外の人々に知ってもらうだけでなく、それにも増して期待されるのは、市民文化の高揚、神戸経済の発展、さらには、ここに結集された科学技術の粋が、知識集約型産業の育成に結びつくことである。夢いっぱい、未来がいっぱいのポートピア人気は、うららかな日差しの中で高まる一方だ。


●六甲アイランド(No.186) 民間活力も導入

 第2の海上都市・六甲アイランドは、ポートアイランドの約1・3倍。東西約3km、南北約2km(面積580ha)の人工島である。昭和47年に着工、完成予定は平成2年。事業費1兆2400億円。居住人口はポートアイランドより1万人多い3万人、8000戸を予定している。
 土地利用計画では、島の外周部分が埠頭用地、そのすぐ内側が港湾関連用地、都市再開発用地。産業基盤用地、そして中央部が都市機能用地になる。このうち都市機能用地の住宅・業務商業施設については全国初の試みとして、コンペ方式で民間活力を導入した。


●西神ニュータウン(No.197) 豊かな暮らしをめざして

 西神ニュータウンを改めて空から見、何度か下を歩いて、感じたことが三つある。一つは、よく言われるように、わが国最初の"職住近接のニュータウン"ということである。進出企業が増えるにつれ、従業員を地元から採用する傾向は一層強くなるだろう。  次は工業・住宅団地とも公園のスケールが大きく、数が多いこと。そして三つ目は、住宅団地の家並みのハイカラさである。洋風・和風・異人館風のタウンハウスから、アメリカ村・カナダ村といった輸入住宅まで実にバラエティに富んでいる。


〈ポートアイランド・六甲アイランド・西進ニュータウン〉
●ポートアイランド No.1OO 昭和56年(1981) 1月
●ポートライナー No.101 昭和56年 (1981) 2月
●ポートピア'81開幕 No.103 昭和56年 (1981) 4月
●神戸ファッションタウン No.173 昭和62年(1987)3月
●六甲アイランド No.186 昭和63年(1988)4月
●ポートアイランド'88夏 No.191 昭和63年 (1988) 9月
●西神ニュータウン No.197 平成元年(1989)3月


  • あの時の熱気が再びよみがえってくるポートピア'81の会場。昭和56年3月20日〜9月15日の会期中の入場者1,610万人、収入320億円。財政計画を60億円も上回る黒字運営だった 103

    整然と並ぶ西神ニュータウンの戸建て住宅。右側上方の、住宅団地と道路一つ隔てて接しているのが西神インダストリアルパーク(工業団地)  No.197

    西神住宅団地のしゃれた洋風住宅。カラフルな道路舗装が住宅とマッチしている No.197
  • ポートピア'81開幕

    ポートピア'81が開かれる約一年前のポートアイランド。中央部分の空地で博覧会が開かれ、その跡地が現在のようなファッションタウン、エキゾチックタウンになるとは、当時はとても想像できなかった 92 昭和55年(1980)5月

    フェニックスの生い茂る六甲アイランドの緑地。前方の高層住宅は昭和63年春に完成したウエストコート4番街 186
  • ポートピア'81開幕

    躍動を続ける現在のポートアイランド No.199 平成元年(1989) 5月

    六甲山天狗岩から東灘区の市街地と六甲アイランドを望む。ポートアイランドの約一・三倍、市街地と比較しながら見るとやはり大きい 186

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