205号表紙

No.205(平成1年11月)

特集:

六甲全山縦走路
松方コレクション展

六甲全山縦走路

六甲全山縦走路

スタート(須磨浦公園)

栂尾山階段

六甲最高峰の碑(931.3m)

菊水山

チェックポイント(大龍寺赤門前)

摩耶山天狗道

ゴ−ル(阪急宝塚駅前)


●上の写真は'88 KOBE六甲全山縦走大会


表紙写真・菊水山頂。昭和10年に大楠公六百年祭が行われたのを記念して頂上に「菊水山」の記念碑が立てられてから、菊水山と呼ばれるようになった。ここからの眺望は、西六甲山系中随一


松方コレクション展

市外参加者一段と増加

'89 KOBE六甲全山縦走大会

 15回目を迎えた'89 KOBE六甲全山縦走大会は、11月12日と23日の両日、須磨浦公園から宝塚までの56kmのコースで行われる。
 今年の参加申し込みは、12日が2732人(うち女性618人)、23日が2604人(女性692人)で、昨年に比べると737人も多い。特に'86大会から始めた市外からの参加者は、今年は一段と増え、両日を合わせると2197人(昨年は1735人)。大阪の750人、京都の84人など近畿はもちろん、関東、東海、四国、九州など22都府県から参加申し込みがあり、六甲連山を舞台に、なごやかな交流が繰り広げられることだろう。
 全体の参加申し込みのうち、60代以上は415人(うち女性52人)にのぼっており、相変わらずのお年寄りパワーの健在ぶりを示している。なお、今年も摩耶ロッジ前とゴール地点に募金箱を置き、福祉関係に役立てるための募金を呼びかける。
 今号では、六甲全山縦走路や、周辺の神社、史跡、伝説などを取り上げたほか、六甲全縦市民の会の大西雄一会長と村上宏氏に、要注意地点での歩き方や医師からみたワンポイントアドバイスをお願いした。


  • 鉢伏山から淡路島を望む。芭蕉の「蝸牛(かたつむり)…」の句は、芭蕉が実際にこの山に登り、こんな風景を見て詠んだのだろう
  • 旗振山頂上の旗振小屋。旗振山は、その名のように「旗振り通信」をしていた場所である。兵庫でたった米相場を裏山の高取山で受け、それをこの旗振山で中継、播州平野の何か所かの旗振り場を経て、岡山へ伝達した。大正時代になって、電話の発達と高層建築の出現で用いられなくなった

    須磨浦公園の六甲全縦スタート地点のすぐ近くにある芭蕉の、「蝸牛角振りわけよ須磨明石」の句碑。蕪村や、子規・虚子連句の句碑も近くにある
  • 鉢伏山から見た朝日。時折、ふもとの国道2号を通るトラックや、JRの列車の音が聞こえるだけ。阪神間唯一の海水浴場である須磨海岸や写真右側の須磨海づり公園も、まだ静かに眠っている

    須磨浦公園の敦盛塚。平敦盛は、清盛の弟・経盛の子。寿永3年(1184年)の源平合戦で、一の谷の浜辺で討たれた時は16歳の紅顔の美少年であった。この塔は、敦盛を供養するために立てられたといわれ(異説もある)、総高3.9m
  • 六甲全山縦走路

  • 須磨アルプスの馬の背。横尾山の東尾根は風化した花こう岩が露出して変化富む光景をつくり出しており、
    須磨アルプスとか神戸槍と呼ばれている

  • 須磨アルプスの露出した岩肌。縦走路の危険な場所には鉄梯子(写真中央のやや右側)が設けられている


    左甚五郎の作といわれる禅昌寺総門。門の開閉にショウヒチリキの音を出すと伝えていたが、今は使用されていない。禅昌寺の山号は高取山の古名と同じ神撫山で、寺の東にそびえるこの山にちなんでこの号をとったのだろう。以前の六甲全縦コースは、横尾山から寺の西に下り高取山へ向かっていた

    旗振山
  • 高倉台から栂尾山への石段道。遠足の中学生が登っていたので見ていると、休まずに登り切る生徒はほとんどいなかった

    須磨アルプスを行く全縦参加者。尾根筋の左下に横尾団地が広がり、前方に高取山が白くかすんで見える('88 KOBE六甲全山縦走大会)

    鉄拐山
    鉢伏山から横尾山に至る連山は住宅地にも近く、自然学習の格好の場となっている。ウバメガシ、ヤマモモ、トベラ、ニセアカシアなどの木々の間に、ムクドリ、シジュウカラ、ホオジロ、キジバトなどがおり、須磨区役所、動物愛護協会などが植物名や鳥類などの解説板を立てている
  • 栂尾山展望台。明治末期から大正初めにかけ、旗振山に代わってここが旗振り場になっていただけに眺望はさすがだ。真下は高倉台団地

    妙法寺境内にある宝篋印塔

    横尾山

    現在の縦走路にある妙法寺。天平10年(738年)の創建と伝える古い寺で、天平の写経などの古文書が多い。本尊の毘沙門天立像(藤原時代)は重要文化財、また境内には、応安3年(1370年)在銘の宝篋印塔(ほうきょういんとう)(県指定重要文化財)がある

  • 高取神社奥の宮から長田の市街地を望む
  • 高取神社奥の宮(金高大神)の裏に立つ高取山頂上碑

    高取山西側の登山道。正面前方の山は横尾山、そのふもとは横尾団地、さらに手前下は妙法寺。高取山の古名・神撫山は、伝説によると、神功皇后が朝鮮半島から帰国してこの山の南の浜に上陸、大きな岩の座にすわり、傍らの石を撫でられた。すると、石はみるみる大きくなり山になった。それが高取山で、神功が撫でてできた山だから、神撫山と呼ぶようになった
  • 菊水山への分岐点にある高取山の潮見茶屋。高取山は南の表参道をはじめ、丸山、板宿、妙法寺など各方面から登山路が通じている。高さ320mの手頃な山なので、毎朝登山などハイカーが年中多く、山上の茶店は市内で最も多い
  • 菊水山頂上の記念碑とNTT無線中継所の大パラボラアンテナ

    菊水山の西面と向かい合って、島原谷にそそり立つ妙号岩。現在、神戸電鉄の通っている烏原谷は兵庫から山田へ抜ける古道越え道で、寂しい物騒な所であったので往来の安全を祈って造られたものらしい。高さ54.5mの大岩石に、1字の大きさ方121cmの6字(南無阿弥陀仏)が力強く彫ってある
  • 菊水山から鍋蓋山を望む。下は、六甲山にトンネルができるまでは神戸から有馬へ行く唯一の南北幹線道路としてにぎわった有馬街道(国道428号)。ハイカーの安全のため道に天王吊り橋が架かっている

    大龍寺山門の少し南にある善助茶屋跡。ここが大正時代に始まった神戸の毎日登山発祥地で、今はその記念碑とあずまやがある

    六甲全縦コース(左)と大師道(右)の接点・大龍寺山門前
  • 再度山の中腹にある大龍寺山門。寺の山号は再度山。延暦年中(782〜805)、弘法大師が入唐のとき登山して求法を祈り、大同年中(806〜809)、帰朝して再び登山したので再度山の名が起こったという。諏訪山公園から再度山への登山道"大師道"も、これにちなんで名付けられた

    再度山のふもとに広がる修法ガ原池(再度公園)。修法ガ原は弘法大師ゆかりの修行の道場としてこの名があり、また、むかし山の北側の里人と南の海辺の人がここで出合い、塩など生活物資を交換したことから塩ガ原とも呼ばれている
  • 今年9月に完成した市役所新庁舎屋上から神戸の市街地と六甲連山を望む
  • 六甲全山縦走路
  • 布引から歩いて約30分の谷あいに広がる市ガ原。休日には家族連れやハイカーでにぎわっており、大龍寺からここを通って摩耶山へ向かう

    旧天上寺奥の院の北の山頂にある天狗岩。ここが摩耶山の山頂で、天狗道を登り切った山上のハイキングコースから細い静かな山道を5分ほど登るとここに着く。天狗岩は、伝説によると摩耶山の僧が山中に出没する天狗を封じ込めたところだという。この岩や道の名は、ともにそこで修行する山伏の姿を見た山麓の人々が、天狗と思って名付けた呼び名だろう

    奥摩耶に昭和58年に復興された天上寺。正しくは摩耶山切利(とうり)天上寺といい、本尊は釈迦が生母摩耶夫人のために造った金銅の十一面観音像。摩耶山の名はこの摩耶夫人にちなんでいる。焼失した旧境内地は現在は史跡公園になっている。摩耶山は天上寺とともに、元弘3年(1333年)、赤松円心が京都の北条方を攻めるために、摩耶山城によって戦ったことでも有名
  • 天狗道の目印になっている関西電力の多重無線用反射板

    摩耶山上の掬星台(きくせいだい)展望台。神戸港から東神戸一帯、さらに西宮、大阪、紀州…のパノラマ景観は見事である。山上には掬星台を中心に各種のレクリエーション施設が整備されており、市街地からケーブル、ロープウェーも通じている
  • NHK摩耶山テレビFM放送所。この放送所と並んで関西電力、サンテレビの中継所も山上にある

    掬星台にある八州嶺の碑。鎖国と攘夷で世の中が騒がしくなった文久3年(1863年)、兵庫・大阪湾海防のため幕府から派遣された小笠原長行が摩耶山へ登山した際、紀州、河内、摂津、播磨など八つの国が見渡せたので八州嶺と命名。以来、摩耶山の別名を八州嶺と呼ぶようになった
  • 大きなアップダウンが何度もある摩耶山の天狗道 2分の1走破

  • 摩耶山上近くの桜谷道にある産湯(うぶゆ)の井。昔、里人がこの水を竹筒に入れて持ち帰り、赤ちゃんの産湯に使ったのでこの名がある。霊峰摩耶の地下をくぐってわき出る水を神聖なものとし、産湯に使うことによって子供のすこやかな成長を願ったものだろう
    六甲山上から東六甲縦走路へ
  • 六甲山ゴルフ場の中を通る縦走路。飛球よけの金網越しに見る左右のグリーンがすがすがしい。このゴルフ場は、日本最初のゴルフ場として明治36年(1903年)5月、神戸外国人居留地の貿易商、英国人A・H・グルームが開いたもので、当時の服部一三兵庫県知事が始球式で用いたボールが今もクラブハウスに保存されている

    雨乞(あまご)いの神様・石の宝殿。六甲山麓は昔から大河がなく水はけの良い土地で、しばしば干ばつに見舞われた。人々はその度に雨乞いのため六甲山上へ登り、石の宝殿へお参りしたという
  • 六甲有馬ロープウェーの天狗岩駅近くにある天狗岩。六甲山系は古くから修験道の行場として開かれ、石の宝殿、行者堂、天狗岩などはその名残である。山上から張り出すようにそそり立つこの岩場は、飛んできた天狗の遊び場だったという言い伝えがある

    六甲最高峰(931.3m)。一軒茶屋から急な舗装路を5、6分上ると最高峰に着く。六甲は、古書には務古、武庫、六甲など「ムコ」と書かれているが、ムコは昔の難波の津(大阪)の対岸、つまり「向こう(向かい)」の意味だといわれており、後に「ロッコウ」と呼び慣らわすようになった。神功皇后が朝鮮遠征の帰途、六つの甲(かぶと)をこの山に埋めたという説もある
  • スイスの高原牧場を思わせる六甲山牧場。写真左側、駐車場前方の建物は昭和62年に完成した神戸チーズ館。神戸チーズ(カマンベールチーズ)の製造過程が一般来場者も見学でき、チーズ料理を主として提供するレストランもある

    芝生広場や池があり、冬は人工スキー場としてにぎわう六甲山カントリーハウス

    大平山から西宮、宝塚方面の夜景を望む。ここまで来れば六甲全山縦走のゴールはもうすぐ。東六甲縦走路のササの深い暗やみ道から抜け、宝石を散りばめたように輝く光に温く迎えられると、人々は一様にほっとした気分になる
  • 岩倉山を過ぎた辺りのだらだら道のわきにぼつんと立つ砂山権現

    大平山頂上にあるNTT船坂無線中継所
  • 船坂峠。昔は北の山里の人がこの峠を越えて南の西宮辺りへ往来したが、今は小さな道しるべと峠らしい雰囲気がわずかに残るだけ。縦走路を歩いていても峠に気付かずに通り過ぎてしまうことが多い

    砂山権現を過ぎるとふもとの塩尾(えんぺい)寺まで、滑りやすい急な砂道が続く

    六甲最高峰のふもとにある一軒茶屋。六甲全縦の参加者の多くがここで最後の腹ごしらえをし、東六甲分岐点をめざす場所である。茶屋の左側を、南の本庄・青木と北の有馬を結ぶ「魚屋道」がドライブウェイを横断して通っている。南の海辺の人々がむかし六甲越えで魚を有馬温泉へ運んだ道だ

    大平山から六甲最高峰(無線中継所の丸いパラボラアンテナ)を望む。標高差250m以上に下ってきたという実感が持てる
  • 六甲山上の前が辻に立つ道標。六甲山には片仮名の登山道が多い。その一つ、山上から南の灘へ下るアイスロードは、人造氷がまだなかった明治期に、冬に凍結する山上の池の氷を氷室に貯蔵しておき、夏にこの道から神戸の市街地へ運んで売ったところからこの名がついた。逆に、前が辻から北の唐櫃へ下るシュラインロードも、昔は六甲山の南と北の人たちが足しげく往来した商いの道。道の守り神・行者堂がまつられるようになってこの名がついた

    東六甲縦走路分岐点。山上のドライブウェイから離れ再び山道に入る。最終のチェックポイントがある あと13km

    塩尾(えんぺい)寺。ここからは広い舗装路を下ること約30分でゴールに着く。しかし、疲れた足にはこの下りは意外と苦しく、気ばかりあせって思うように足が前へ出ないのが常である

    宝塚駅ゴール56q完走

松方コレクション展

明らかになった全体像

市立博物館学芸員 越智 裕二郎


 幻といわれてきた松方コレクションも、このたびの展覧会を機に、ようやくその全体像が明らかになってきた。それとともに従前では知られていなかった重要な作品が、このコレクションに入っていたことも判り、そういった作品も交えて、紙上でコレクションの一部を紹介したい。

イギリスに東洋趣味を持ち込んだ―リュイス「ハーレム」

 前頁に掲載した「ハーレム」のフレデリック・リュイスはイギリスの画家で、ビクトリア刺を代表する作家の一人。ビクトリア朝というのは、ビクトリア女王が在位した一八二七年から一九〇一年をいうが、その間は産業革命によりイギリスが最も繁栄した時代でもあった。リュイスは、そのイギリスにオリエンタリズム(東洋趣味)を持ち込んだ人間としても特筆すべき作家である。
 彼は、若いころ十年以上もカイロに住み、そこで優雅な生活を楽しんでいた。そしてロンドンに引きあげる直前に描いたのがこの作品である。カイロの裕福な邸宅をモデルにした本作は、当家の若い主人のハーレムにさらに新しい女性が連れて来られるというドラマティックな場面を題材としており、その人物構成やエキゾティックな風物、そして何よりも水彩画であるにもかかわらず、その緻密(ちみつ)な描写が当時の人々を驚かせた。
 細かな格子窓、そこに映るモスク、漏れこむ日差し、椅子にかけられた織物の表現など、今みても、当時の「水彩画というジャンルの最大の収穫」という批評がそのままあてはまるように思われる。
 そして私たち日本人は、上部の龕(がん)や、床の左右に置かれた伊万里の瓶や水差しに思わず目がいくであろう。これらの磁器は当時日本からはるばるオランダ船でヨーロッパに運ばれたものであった。
 本作は二十世紀のはじめ、ロンドンから姿を消し、本作のレプリカを持つ国立のV&A美術館などが捜していたところ、二年前に松方コレクションに入って大阪に存在していることが判明したものである。


農民や働く人が絵画の主題に―マクベス「畠への出で立ち」など

 その所蔵先である日本生命本社に交渉に通う間に、松方コレクションと判明したのがマクベスの作品「畠への出で立ち」、「馬鈴薯採り」である。淀屋橋の本店営業部の高い壁に掛けられていた本作は、その大きさ、制作年代から松方コレクションの匂い濃厚であり、調査したところ、昭和九年東京府美術館での売立に出品されていたものと判明した。イギリスでも農民や働く人が絵画の主題となるのは、十九世紀も末になってからのことであるが、本作はその前に流行したパノラミックな画面が加味されており、興味深い図柄といえよう。
 十九世紀後半のイギリス美術の中でも、異彩を放つプレ・ラファエロ運動(ラファエロ以前の初期ルネサンスに立ち帰ろうとする)の中心人物であったロセッティの傑作「愛の杯」は、幸次郎の手を離れて長く神戸にあったもの。一九八四年に国立西洋美術館が取得した。十九世紀美術ばかりではない。英国美術における風景画の成立に大きな力のあったウィルソンの作品「セラドンとアメリア」などは、版画でこそ知られているものの、本画の行方が分からなかったものである。
 この作品はJ・トムプソンの詩の、夏に恋人と森を散歩中、折からの雷に打たれて恋人が死ぬというテーマを絵画化したもので、詩の最後にある「この悲劇を誰が伝えることができようか」という言葉に対応したものである。
 松方コレクションの中のイギリス美術はあまり語られることがないために、少し紙数をさいたが、しかし松方コレクションの精華は、何といってもフランス近代美術である。それは十九世紀後半の造形運動がフランスを中心に展開されたことと無縁ではあり得ない。印象派を中心に、それを準備したバルビゾン派や写実主義、あるいは印象派以降のゴッホ、ゴーギャン、野獣派のマルケ、キュビスムのピカソ、エコール・ド・パリのスーチンなど、たくさんの絵画がこのコレクションには含まれている。


ドガの絵を切り取ったマネ―「マネとマネ夫人の肖像」

 中でもドガの「マネとマネ夫人の肖像」は、ドガとマネの仲たがいの原因になった絵として有名なもの。マネ夫人の演奏するピアノをマネが聞いている図をドガが描いてマネに贈ったところ、マネは夫人の顔が気にいらなかったものか、夫人の顔のところからキャンバスを切ってしまう。修正癖のあるドガがマネの家にこの絵を手直しに来たところ、既に切りとられている絵をみて、怒りのあまりものもいわずにこの絵をもってマネの家を出たというのである。
 そのドガとあまり仲の良くなかったモネの「積みわら」は、ようやく生活が安定し、ジヴェルニーに居を定めた頃のもので、絵の中に、のちに結婚する女性や彼女の子供が登場する。


二十年ぶりに公開―ピサロ「ルーアンの波止場」

 ドガやモネをまとめながら印象派運動の中心人物であったピサロの「ルーアンの波止場」は、ここ二十年近く公開されていなかった作品。温厚な人柄を反映し、画面でも調和を重んじた彼の絵は、いつも観る者にある安らぎを与えるが、セーヌ川沿いの波止場を描いた作品も晩夏の静かなたたずまいが、詩情をもって描かれる。ちなみにこの直後彼の畢生(ひっせい)の大作、パリの大通りシリーズがはじまるのである。


新たな構成で新古典主義ヘ―ピカソ「読書する婦人」

 ピカソは、キュビスムを一九〇七年に確立し、さまざまな分解を行うが、ギリシャ・ローマの旅行を経て、新古典主義とのちに呼ばれる新たな構成へと向かう。一九二〇年に描かれた、コレクション作品のピカソの「読書する婦人」は、ちょうどこの時代にあたる。
 コレクションが崩壊する直前に買われたスーチンの「ドア・ボーイ」は、有名なパリの高級レストラン「マキシム」のボーイを描いたもの。ピカソとスーチンは、いずれも昭和三十四年フランスが日本に返還した作品の中に含まれておらず、フランスが国外に持ち出すことを許さなかった作品である。
 コレクションは英・仏だけではなく、北欧やスイス・ドイツ・スペイン、何とオーストラリアまでの作家におよび、彼の目配りの広さがうかがえるが、このコレクションは大正期、一九二○年代のヨーロッパ絵画状況の一断面を浮かびあがらせているといってよい。
 神戸はかつて、このような大コレクターを持っていたのである。


松方コレクションの成り立ち

 松方幸次郎は明治の元勲正義の三男として、慶応元年(一八六五)鹿児島に生まれた。明治政府樹立により、父とともに東京へ移り、大学予備門まで進んだが、そこで、ストライキを起こして放校処分になったあとは、アメリカへ留学、維新政府と深いかかわりのあったラトガーズ大学、のちにエール大学へ移り、市民法の博士号を取得して帰国した。


外交官か政治家を目指した松方

 彼は最初、外交官か政治家を目指したようであるが、帰国直後に私設首相秘書官を経験したあと、実業界へ転身する。そして明治二十九年、飛躍への土台を固めるべく株式会社組織に改まった川崎造船所の初代社長に迎えられた。ちなみに幸次郎のアメリカ留学費用は、当造船所を起こした川崎正蔵がすべて負担していたことが近年明らかになっている。
 社長に就任した幸次郎は期待に応えて六年の難工事の末、乾ドックを完成、三菱長崎造船所に次ぐ造船所に発展させる。さらに海軍との道をつけ、軍艦建造を行うようにしたのも彼である。
 幸次郎と松方コレクションを結ぶものは第一次世界大戦であった。オーストリアの皇太子がサラエボで略殺されたニュースを聞いて、幸次郎は金を借りるだけ借り集めていち早く鉄を買い、貨物船の建造を急ぐ。戦争がはじまり連合軍の船がドイツのUボートによって次々に沈められると船価はぐんぐん上昇、見通しの早かった川崎造船所は莫大な利益をあげることになるのである。その船の売り込みや鉄資材の買いつけ、また戦争の行方を見定めるために彼は大正五年ロンドンに陣取った。その部屋は総合商社の源流といわれる鈴木商店ロンドン支店の隣の部屋であった。


二年間に西洋美術一千点余を収集

 幸次郎はそのロンドンでたまたま造船所の絵を買うが、その作者こそ高名なブラングィンであった。幸次郎はこのブラングィンと知り合うことにより、コレクションをはじめたといってよい。浮世絵の価値の高さ、絵画の社会に占める位置など、彼から幸次郎の学ぶところは多かったに違いない。おそらく大正六年(一九一七)からはじまった収集は二年間のあいだに、西洋美術約一千点余、浮世絵八千点余、総額五十二万ポンド。それらは戦争のあと日本に運ばれ、川崎造船所の地下に入れられた。
 幸次郎はさらに大正十年(一九二一)ヨーロッパを訪れる。このたびは飛行機などの新しい技術導入とともにドイツの潜水艦の設計図を手に入れることが目的であったため、その陽動作戦としてパリを中心に派手な買い方をした。ステッキで壁を指し、ここからここまでとか、小さな画廊へ行くと壁にかかっている絵すべてを買ったとか今もいわれている。そのためにジャーナリズムは彼を東洋の謎の大コレクターと評し、その名はアメリカまで鳴り響くことになった。


モネから直接買った十八枚の絵

 およそ一千点の絵画をこの折買っているが、なかでもモネから直接買った十八枚の絵やルノワールの「アルジェリア風のパリの女たち」、ゴッホの「アルルの寝室」などは、その頂点をなすものである。これらの絵はほとんどがロダン美術館とロンドンの倉庫に留めおかれた。先に送った荷物で川崎造船所の地下が一杯だったからである。
 幸次郎は、これらの作品を美術館の中に収めて広く公衆に公開しようとし、ブラングィンに設計図を依頼していた。その名を共楽美術館といい、最初神戸につくる予定であったが、のちに父正義が持つ東京麻布の三万坪の敷地を利用することにし、大正十年には設計図はほぼ完成、石膏模型までできていた。
 しかし、関東大震災を引き金とする昭和の金融恐慌は、幸次郎の夢を打ちくだいた。昭和二年、主要取引銀行であった十五銀行の休業により川崎造船所は苦境に陥り、彼のコレクションは銀行の抵当に入る。そして翌年彼は社長の職を辞した。その年からコレクションは順次売り立てられ、すべて完全に散逸した。ただ浮世絵八千二百四点は、一括宮内省へ献上され、現在も東京国立博物館に保管されている。


戦後の財産税などで海外へ流出

 戦前は関西を中心に残っていた名画も、戦後の財産税や相続税により海外へ流出し、また、高度成長期の経済変動がさらにその拍車をかけた。行く先のほとんどはアメリカであるが、遠くはイスラエルの美術館、サンパウロの美術館にまでおよんでいる。
 海外に残された分についていえば、ロンドンに置いた作品は一九三九年倉庫の火災にあい、ブラングィンの傑作をはじめ、英国美術や家具など約四百点が焼失した。パリに残された約四百点の絵は第二次世界大戦後フランス政府により敵性資産として没収され、サンフランシスコ講和条約の際、吉田茂首相の尽力により日本へ寄贈という形で返還される。そのために設立されたのが国立西洋美術館である。そして一九五九年三百七十一点が返還されたが、しかしフランスも国有財産であるため、十九点の国宝級の絵は返還しなかった。それらは、今もオルセー美術館を中心にフランスの国立美術館で展示されている。


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