256号表紙

No.256(平成6年2月)

特集:

有馬いまむかし(上)

有馬いまむかし(上)

(左)
有馬温泉のほぼ中央部にある天神泉源。地下185m から122度の熱泉が噴き出している。有馬にはこんな泉源が数か所あり、旅館や保養所に温泉が送られている。後ろの山は落葉山。仁西が有馬温泉を再興したとき、この山の上で途方にくれていると白髪の老人が現れ、木の葉を投げて、あれが落ちた所を掘れば湯がわくと告げて姿を消したという伝説がある

『日本書記』に登場する日本最古の有馬温泉

 有馬温泉は神代の昔、大己貴命(おおなむちのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)の二神がつくられたという伝説があり、草津、道後と並んで日本最古の温泉といわれている。
 『日本書記』に、舒明(じょめい)天皇が六三一年九月から十二月までと、六三八年十月から翌年一月までの二回、また孝徳天皇は、大化三年(六四七)十月から十二月まで有馬温泉にそれぞれ御幸したとの記述がある。両天皇ともかなり長いご逗留(とうりゅう)で、孝徳天皇のときは、大臣や重臣も付き添って来ている。
 それから一〇〇年近くたって、聖武天皇のころ僧行基(ぎょうき)がこの地に来て、衰えていた湯泉を復興し、温泉寺や蘭若(らんにゃ)院、施薬(せやく)院、菩提(ぼだい)院の一寺三院を建て温泉を有名にしてからは、奈良・京都地方から貴族などもはるばる入湯に来るようになった。
 『万葉集』の「有間(ありま)山」を詠んだ歌では

 しなが鳥 居名野(いなの)を来れば有間山  夕霧立ちぬ宿りはなくて(巻七)
 が、よく知られている。

 承徳元年(一〇九七)六甲に山津波が起こり、一〇〇年余も寂れていた有馬温泉を復興させたのが吉野の僧仁西(にんさい)といわれる。現在でも有馬の旅館に坊の字のつく名が多いのは、仁西が薬師如来を守る十二神将になぞらえて、十二の坊舎を建てたのが始まりと伝えられている。
 そして天正十三年(一五八五)、いよいよ太閤秀吉と有馬温泉とのかかわりが始まる。秀吉のたびたびの入湯、温泉場の修理などによって、いわば宗教的な色彩の濃かった湯治場から有馬温泉は趣を一新。歓楽地、憩いの場へと脱皮したことが、江戸時代末期には「有馬千軒」とうたわれる程の一大観光地へとつながった。

今日の繁栄につながった三恩人
 このようにみてくると、有馬は古来から温泉地として平穏に繁栄の道をたどってきたのではなく、幾たびかの災害や戦火で壊れ、すたれながら、そのたびに行基・仁西・秀吉といった恩人が現れ、不死鳥のようによみがえって今日に至っているのである。

「有馬」の地名
 古代日本語で有馬のアリは、山、または山並みをさす言葉。同じくマは、但馬・播磨・須磨などのマと同じで、土地のこと、ないしは平面としての広がりをさした言葉といわれている。
 これをまとめると、有馬は「山間の一画」、または「山間の土地」という意味になる。有馬のことを古文書などには、「有間」と書かれているが、意味は同じである。

有馬の三羽烏(からす)
 大己貴命と少彦名命が有馬に降臨されたとき、三羽の傷ついた烏が水たまりで水浴していた。そして数日で烏の傷が治ったので不思議に思った二神が調べると、この水たまりが効能高い温泉であることが分かった。これが、有馬温泉が世に知られるようになった始まりである。
阿弥陀坊の茶釜
 秀吉は、有馬の天神山のそばの蘭若(らんにゃ)院の阿弥陀坊という禅寺をたずねた。時の住職は澄内和尚といった。この和尚は頭がとても人きく、猪首(いくび)だった。「妙な形の頭じゃな、和尚。そうじゃ、利休をよべ」
 秀吉は、千利休に命じて澄内和尚の頭の形の茶釜(がま)をつくらせた。利休は、この釜ができた時、それを猪首釜と名付け、人々もこの寺の名から、猪首釜のことを阿弥陀堂とも呼ぶようになった。これが、茶の湯に用いる阿弥陀堂という型の釜のおこりである。この茶釜は、今も落葉山のふもとにある善福寺に伝えられている。
願いの湯
 秀吉が有馬に来た時のことであった。清涼院から坤(ひつじさる)の方角にある高台に登って、眼下をながめながら、ツエでとんとんと地面をたたいた。
 「もし、この地に湯がわき出せば、海のかなたまでが、わしの支配下に入るはずじゃ。ここにわき出す湯に入りたいものじゃ」。
 すると、足元から湯が突然わき出し、新しい温泉場ができた。人々は、これを上之湯とも願いの湯とも呼んでいた。しかし、やがて秀吉が死ぬと、湯はぷっつりとわかなくなってしまった。
 この願いの湯(新湯)跡は、極楽寺の境内にあったが、今は庫裏の下に隠れてしまっているという。
有馬は六甲断層の交差点
有馬と断層
 有馬の町から歩いて30分ほど東に白水峡がある。ここは水が少なく、ぼろぼろになった花こう岩が直接地面に出て、荒涼とした一種異様な岩山の景色をつくっている。これは断層(ある力で地表が上下、左右にずれ動いてできる裂け目)によって、岩山が壊されたためにできた地形である。有馬に温泉が出るのは、この断層と深い関係があるといわれている。
 有馬の付近を通る断層の主なものをみると、まず東から六甲断層が有馬にのびてきている。これが有馬で三つに分かれて、さらに西へ藤原山断層、有野断層、射場山断層と続き、また少し南には、湯槽谷断層も通っている。有馬はちょうどそれらの交差点にあたっているわけだ。
 有馬だけでなく六甲山地全体が断層の多い山で、このためもろくて崩れやすく、有馬温泉が昔からたびたび水害にあい、土砂にうずまったのはこのせいである。

有馬の温泉
 ところで、温泉のでき方についてはいろいろな考え方がある。一つは、地上に降った雨水が地下水となり、これが火山の地熱であたためられ、再び地上にわき出てくるというもの。もう一つは、地下深くにあるマグマ(岩しょう)の中に含まれている水蒸気が、岩の割れ目や断層を昇って湯になってわき出すという考え方である。有馬温泉は、近くに火山のないことや湯に含まれている成分、わき出し方などからみて後者が主で、それにいくらかの地下水が混じったものであると考えられている。
 有馬温泉は塩分と鉄分を大変多く含んでいるのが特徴。このため湯の色が茶色で、なめると塩っからい。有馬ではこれを金泉と呼んでいる。また、ラジウムを含むラジウム泉もあって、銀泉と呼ぶ。このほか、炭酸泉には二酸化炭素を多く含んでおり、これはまさに天然の炭酸水である。

うわなりの湯
 古くから後妻湯ともいって、和漢三才羅山詩集などで知られ、豊かな史実を伝えている。この名の由来は、若い娘などが美しく化粧をして湯のそばに行くと、すぐ怒って嫉妬(しっと)がましく叫ぶように湯がわき立つところから、妬(うわなり)湯といわれるようになったという。また、刀傷に効き目があるといわれていた。
 現在の妬湯跡は昔の湧出口で、今はこの裏に「新妬湯」と呼ばれる泉源があって本温泉浴場に引湯されている。
 現在の有馬の泉源は昭和に入ってから掘削されたもので、昔から湯がわいていたのは、元湯のほかでは妬湯、目洗湯、花の湯の3か所が有名であった。

鳥地獄・虫地獄・炭酸地獄
 射場山と愛宕山の間に地獄谷と呼ぶ谷がある。この谷はかつて断層の割れ目からたくさんの炭酸ガスが噴き出し、虫や小鳥などが死んだことから虫地獄、鳥地獄と呼ばれていた。また、この付近にわき出ている炭酸水は昔はその成分が分からず、町民から「毒水」として恐れられていた。
 この毒水のわき出ていた「血の池」という炭酸泉に目をつけた三田城主の山崎家盛が、温泉場をつくろうとしたので驚いた町民が秀吉に直訴し、工事をやめさせたことがあった。
 明治になって、炭酸水が良質の飲料水であることが分かり、それからは炭酸泉の掘削が行われ、ますます評判となった。射場山のふもとに今も鳥地獄・虫地獄・炭酸地獄の碑が残っている。

写真
たそがれの有馬温泉。眼下に温泉街を見下ろす落葉山からの眺めは、古くから詩歌にも詠まれており、景勝地として有名である(1月27日撮影)
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